真・ハチ公物語 15
山形県鶴岡市の庁舎にある、渋谷のハチ公像によく似た石こう像。これが、60年ほど前につくられたハチ公像の原型だということがわかった。地元では「鶴岡ハチ公像保存会」を設立。渋谷はもちろん、ハチ公のふるさとである秋田県大館とも交流を図りたい、さらに、ハチ公の子「クマ公」の子孫や兄弟犬のゆくすえなど、ハチ公の子孫探しにも取り組みたい、という。没後72年経っても、ハチ公をめぐる話題は、いっこうに衰える様子はないようだ。
「千の風になって」山形県鶴岡で
見つかった「もう1つのハチ公像」
ハチ公像の試作品の
石こう像が山形で発見
「千の風に/千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています」という「千の風になって」という歌が評判になっている。
昭和10年3月8日にハチ公が亡くなって、もう72年になるというのに、ハチ公ほど、私たちの心にいつまでも残り、今も数多くの人々に気にかけられ、大切に想われている犬は、ほかにいないのではないだろうか?
最近もまた、ハチ公にまつわる新しい「発見」があった。山形県鶴岡市藤島の藤島庁舎の入口にある犬の石こう像が、東京の渋谷駅前にある「忠犬ハチ公像」の試作品の石こう像であることがわかったのだ。
鶴岡市は、穀倉地帯として知られる庄内平野のほぼ中央に位置する。独自の粘りとつやが人気の銘柄米「はえぬき」「どまんなか」の発祥の地だ。
映画「武士の一分」の原作者として知られる作家・藤沢周平の出身地でもある。
渋谷の銅像とよく似た鶴岡のハチ公像は、白い石こう像。これを守り伝えようと「鶴岡ハチ公像保存会」も設立された。
市内の神社で開かれた記念式典には、ハチ公像の制作者で彫刻家の安藤士さん(83歳・渋谷区在住)も駆けつけ、59年ぶりに試作品のハチ公像と対面した。
この鶴岡のハチ公像は、安藤さんが、現在の2代目ハチ公像の試作品として1947年に制作したもの。
その後、旧藤島町の建設会社会長の手に渡り、最終的に1985年、旧藤島町役場(現・藤島庁舎)の庁舎完成を記念して寄贈された、という。
この像を見た地元の薬剤師・高宮宏さんは、「渋谷のハチ公像より一回り小さいが、とてもよく似ている」と感じた。
台座の右後方には「士 1947」と刻まれていた。1947年すなわち昭和22年は、戦争で失われたハチ公像が再建された年だ。
「これをつくったのは、渋谷のハチ公像と同じ制作者に違いない」高宮さんは、そう直感した。
代表的な日本犬の姿をブロンズに残したい
高宮さんは、思いきって東京の安藤さんを訪ねた。庁舎にある石こう像の写真を見せたところ、「間違いなく私がつくりました」と安藤さん。
前述したように、現在の渋谷のハチ公像は2代目。初代のハチ公像は、安藤さんの父で彫刻家の安藤照(故人)が、「ぜひ代表的な日本犬のスタイルをブロンズに残しておきたい」と制作した。
しかし、第二次世界大戦の終戦直前、金属回収令によって浜松の工場で溶解されてしまった。
戦後しばらくして、銅像を再建しようという機運が高まり、息子の安藤さんに依頼がきた。
初代の銅像をつくるとき、父・照は、ハチ公を坐らせて、まず、粘土で原型をつくった。
この頃のハチ公は、すでにかなりの老犬になっていた。そのため、両耳も力なく垂れ気味で、すぐごろりと横になってしまった。
四肢を踏ん張る雄大な秋田犬のイメージは消えてしまったかに見えた。
しかし、あるとき、玄関から女性の声がしたとたん、それまで、腹ばいになって、はあはあと荒い息をしていたハチ公が、跳ね上がり、尾を振りながら入口に突進した。
アトリエに訪ねてきたのは、ハチ公の飼い主であった上野博士の妻だった。上野夫人が、「ハチ!」と声をかけると、制作中の粘土の像をひとまたぎして、夫人に飛びついた。
喜ぶハチ公を見た照は、あっけにとられた。ハチ公は、上野博士の死後、別な飼い主の手に渡り、すでに9年にもなっていた。
「日本犬というものは、こんなにも、もとの主人のことを忘れないのか。第二の主人というものは持てない性質を備えているのだな」と心から感心した。
よく見ると、それまでだらりと垂れていた尾や耳がぴんと立って、体もきりりと引き締まっている。
照は急いで、喜ぶハチ公の姿を像に刻んだ。飼い主の帰りを待ち続けたハチ公の純粋で一途な思いをもっと込めなければ、と思いながら、その後も制作に没頭した。
こうして完成したハチ公のブロンズ像は、石こうの型に移され、展覧会に出展された。
このときの石こう像は、照が郷里の熊本に疎開するため、東京駅まで運んだところ、空襲で消失した。渋谷区笹塚にあったアトリエと数々の作品、そして照自身も、同じ空襲によって還らぬ人となってしまった。
2代目ハチ公像をつくる際、安藤さんは、日本犬保存会の創立に尽くし、忠犬ハチ公が世に知られるきっかけとなった斎藤弘吉に、「ハチ公銅像再建のため、原型をつくりたいので指導してほしい」と願い出た。
斎藤は、「資料となるべきものは、前の銅像や生前の写真、はく製と計測表くらいしかなかった。それなのに、よくあれだけもとの像とそっくりにつくり上げたものだ」と感心した。
こうして親子二代にわたってハチ公像を完成させた。その後、安藤さんは、アトリエにしていた借家に、試作品を置いたまま転居。しばらくして、彫刻家仲間から、その石こう像は、東北に住む人の手に渡ったと聞いた。それだけしかわからなかったそうだ。
ハチ公の恩人・斎藤の
出身地で見つかった像
藤島庁舎に寄贈された像が、渋谷のハチ公像の試作品であることを突き止めた高宮さんは、市民有志とともに保存会を立ち上げた。
設立総会には、安藤さんはじめ、鶴岡市長や元藤島町長や市民など、約50人が出席。
藤島庁舎から会場に運び込まれたハチ公の石こう像の除幕は安藤さんの手で行われた。
もう一つのハチ公像に対面した安藤さんは、涙を浮かべながら像にふれ、「すでに壊れてないものだとばかり思っていたので夢のよう。まるでわが子と会ったような感激です。ハチ公像を制作する際、動物が人間を信じているというまなざしをしっかり像にしようと思いました。動物を大切にすることを伝えたかった。みなさんから長く保存していただけることをうれしく思います」と述べたそうだ。
会長に選任された高宮さんは、鶴岡市出身の動物愛護家である斎藤弘吉(1899~1964年)についても紹介した。
安藤親子のハチ公像の制作に協力を惜しまなかった斎藤は、日本動物愛護協会理事長、東京都狂犬病予防審議会委員、庭園協会常務理事、日本哺乳類動物学会理事、動物友の会や空気銃対策協議会代表、ハチ公銅像維持会顧問、世界動物保護連盟日本代表理事もつとめるなど、幅広く動物愛護活動に取り組んだ。
ハチ公の恩人ともいえる斎藤の出身地・鶴岡で、もう一つのハチ公像が見つかった。これも何か因縁を感じる。
斎藤の動物愛護の精神とともに、ハチ公のことをもっと市民に広めたい。そうした思いが高宮さんにはあるようだ。
ハチ公の子「クマ公」と
兄弟犬の子孫探しも
東京・渋谷のシンボルであるハチ公銅像の試作品が、500キロも離れた鶴岡に現存していた。
毎年、代々木公園周辺で開かれるフェスティバル「渋谷区くみんの広場」では、ハチ公にちなんだイベントを開催している。
新聞記事で、「もう一つのハチ公像」の存在を知った渋谷区役所は、渋谷公会堂で、藤島庁舎の石こう像を写真パネルなどで紹介するコーナーを設けた。
鶴岡ハチ公像保存会も、今後、渋谷はもちろん、ハチ公のふるさとである秋田県大館との交流も図りたいとしている。
また、山形県酒田市で飼われていたといわれるハチ公の兄弟犬の子孫探しにも取り組みたい、という。
「ハチ公に兄弟?」と思われた方もいるかもしれない。ハチ公には、「クマ公」という息子(!)と、3頭の兄弟がいたとされる。でも、詳しいことはほとんどわかっていない。
ハチ公の子供や兄弟には、どのようなドラマがあったのだろう?興味を抱かずにいられない。
数奇な運命をたどったハチ公の遺伝子を持った犬探しを思い立った、というのも自然のなりゆきなのかもしれない。
「千の風になって」ハチ公は、渋谷や秋田だけでなく、山形にもたどり着いた、ということだろうか? 人に歴史あり、というが、ハチ公ほどの犬ならば、まだまだ知られざる物語があるのではないか?
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