真・ハチ公物語

2007/07/15

真・ハチ公物語 15

山形県鶴岡市の庁舎にある、渋谷のハチ公像によく似た石こう像。これが、60年ほど前につくられたハチ公像の原型だということがわかった。地元では「鶴岡ハチ公像保存会」を設立。渋谷はもちろん、ハチ公のふるさとである秋田県大館とも交流を図りたい、さらに、ハチ公の子「クマ公」の子孫や兄弟犬のゆくすえなど、ハチ公の子孫探しにも取り組みたい、という。没後72年経っても、ハチ公をめぐる話題は、いっこうに衰える様子はないようだ。

「千の風になって」山形県鶴岡で

見つかった「もう1つのハチ公像」

ハチ公像の試作品の

石こう像が山形で発見

「千の風に/千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています」という「千の風になって」という歌が評判になっている。

昭和10年3月8日にハチ公が亡くなって、もう72年になるというのに、ハチ公ほど、私たちの心にいつまでも残り、今も数多くの人々に気にかけられ、大切に想われている犬は、ほかにいないのではないだろうか? 

最近もまた、ハチ公にまつわる新しい「発見」があった。山形県鶴岡市藤島の藤島庁舎の入口にある犬の石こう像が、東京の渋谷駅前にある「忠犬ハチ公像」の試作品の石こう像であることがわかったのだ。

鶴岡市は、穀倉地帯として知られる庄内平野のほぼ中央に位置する。独自の粘りとつやが人気の銘柄米「はえぬき」「どまんなか」の発祥の地だ。

映画「武士の一分」の原作者として知られる作家・藤沢周平の出身地でもある。

渋谷の銅像とよく似た鶴岡のハチ公像は、白い石こう像。これを守り伝えようと「鶴岡ハチ公像保存会」も設立された。

市内の神社で開かれた記念式典には、ハチ公像の制作者で彫刻家の安藤士さん(83歳・渋谷区在住)も駆けつけ、59年ぶりに試作品のハチ公像と対面した。
 この鶴岡のハチ公像は、安藤さんが、現在の2代目ハチ公像の試作品として1947年に制作したもの。

その後、旧藤島町の建設会社会長の手に渡り、最終的に1985年、旧藤島町役場(現・藤島庁舎)の庁舎完成を記念して寄贈された、という。
 この像を見た地元の薬剤師・高宮宏さんは、
「渋谷のハチ公像より一回り小さいが、とてもよく似ている」と感じた。

台座の右後方には「士 1947」と刻まれていた。1947年すなわち昭和22年は、戦争で失われたハチ公像が再建された年だ。

「これをつくったのは、渋谷のハチ公像と同じ制作者に違いない」高宮さんは、そう直感した。

代表的な日本犬の姿をブロンズに残したい
 高宮さんは、思いきって東京の安藤さんを訪ねた。庁舎にある石こう像の写真を見せたところ、「間違いなく私がつくりました」と安藤さん。
 前述したように、現在の渋谷のハチ公像は2代目。初代のハチ公像は、安藤さんの父で彫刻家の安藤照(故人)が、「ぜひ代表的な日本犬のスタイルをブロンズに残しておきたい」と制作した。

しかし、第二次世界大戦の終戦直前、金属回収令によって浜松の工場で溶解されてしまった。

戦後しばらくして、銅像を再建しようという機運が高まり、息子の安藤さんに依頼がきた。
 初代の銅像をつくるとき、父・照は、ハチ公を坐らせて、まず、粘土で原型をつくった。

この頃のハチ公は、すでにかなりの老犬になっていた。そのため、両耳も力なく垂れ気味で、すぐごろりと横になってしまった。

四肢を踏ん張る雄大な秋田犬のイメージは消えてしまったかに見えた。

しかし、あるとき、玄関から女性の声がしたとたん、それまで、腹ばいになって、はあはあと荒い息をしていたハチ公が、跳ね上がり、尾を振りながら入口に突進した。

アトリエに訪ねてきたのは、ハチ公の飼い主であった上野博士の妻だった。上野夫人が、「ハチ!」と声をかけると、制作中の粘土の像をひとまたぎして、夫人に飛びついた。

喜ぶハチ公を見た照は、あっけにとられた。ハチ公は、上野博士の死後、別な飼い主の手に渡り、すでに9年にもなっていた。

「日本犬というものは、こんなにも、もとの主人のことを忘れないのか。第二の主人というものは持てない性質を備えているのだな」と心から感心した。

よく見ると、それまでだらりと垂れていた尾や耳がぴんと立って、体もきりりと引き締まっている。

照は急いで、喜ぶハチ公の姿を像に刻んだ。飼い主の帰りを待ち続けたハチ公の純粋で一途な思いをもっと込めなければ、と思いながら、その後も制作に没頭した。

こうして完成したハチ公のブロンズ像は、石こうの型に移され、展覧会に出展された。

このときの石こう像は、照が郷里の熊本に疎開するため、東京駅まで運んだところ、空襲で消失した。渋谷区笹塚にあったアトリエと数々の作品、そして照自身も、同じ空襲によって還らぬ人となってしまった。

2代目ハチ公像をつくる際、安藤さんは、日本犬保存会の創立に尽くし、忠犬ハチ公が世に知られるきっかけとなった斎藤弘吉に、「ハチ公銅像再建のため、原型をつくりたいので指導してほしい」と願い出た。

斎藤は、「資料となるべきものは、前の銅像や生前の写真、はく製と計測表くらいしかなかった。それなのに、よくあれだけもとの像とそっくりにつくり上げたものだ」と感心した。

こうして親子二代にわたってハチ公像を完成させた。その後、安藤さんは、アトリエにしていた借家に、試作品を置いたまま転居。しばらくして、彫刻家仲間から、その石こう像は、東北に住む人の手に渡ったと聞いた。それだけしかわからなかったそうだ。

ハチ公の恩人・斎藤の

出身地で見つかった像

藤島庁舎に寄贈された像が、渋谷のハチ公像の試作品であることを突き止めた高宮さんは、市民有志とともに保存会を立ち上げた。
 設立総会には、安藤さんはじめ、鶴岡市長や元藤島町長や市民など、約50人が出席。

藤島庁舎から会場に運び込まれたハチ公の石こう像の除幕は安藤さんの手で行われた。

もう一つのハチ公像に対面した安藤さんは、涙を浮かべながら像にふれ、「すでに壊れてないものだとばかり思っていたので夢のよう。まるでわが子と会ったような感激です。ハチ公像を制作する際、動物が人間を信じているというまなざしをしっかり像にしようと思いました。動物を大切にすることを伝えたかった。みなさんから長く保存していただけることをうれしく思います」と述べたそうだ。

会長に選任された高宮さんは、鶴岡市出身の動物愛護家である斎藤弘吉(1899~1964年)についても紹介した。

安藤親子のハチ公像の制作に協力を惜しまなかった斎藤は、日本動物愛護協会理事長、東京都狂犬病予防審議会委員、庭園協会常務理事、日本哺乳類動物学会理事、動物友の会や空気銃対策協議会代表、ハチ公銅像維持会顧問、世界動物保護連盟日本代表理事もつとめるなど、幅広く動物愛護活動に取り組んだ。

ハチ公の恩人ともいえる斎藤の出身地・鶴岡で、もう一つのハチ公像が見つかった。これも何か因縁を感じる。

斎藤の動物愛護の精神とともに、ハチ公のことをもっと市民に広めたい。そうした思いが高宮さんにはあるようだ。

ハチ公の子「クマ公」と

兄弟犬の子孫探しも

東京・渋谷のシンボルであるハチ公銅像の試作品が、500キロも離れた鶴岡に現存していた。

毎年、代々木公園周辺で開かれるフェスティバル「渋谷区くみんの広場」では、ハチ公にちなんだイベントを開催している。

新聞記事で、「もう一つのハチ公像」の存在を知った渋谷区役所は、渋谷公会堂で、藤島庁舎の石こう像を写真パネルなどで紹介するコーナーを設けた。

鶴岡ハチ公像保存会も、今後、渋谷はもちろん、ハチ公のふるさとである秋田県大館との交流も図りたいとしている。

また、山形県酒田市で飼われていたといわれるハチ公の兄弟犬の子孫探しにも取り組みたい、という。

「ハチ公に兄弟?」と思われた方もいるかもしれない。ハチ公には、「クマ公」という息子(!)と、3頭の兄弟がいたとされる。でも、詳しいことはほとんどわかっていない。

ハチ公の子供や兄弟には、どのようなドラマがあったのだろう?興味を抱かずにいられない。

数奇な運命をたどったハチ公の遺伝子を持った犬探しを思い立った、というのも自然のなりゆきなのかもしれない。

「千の風になって」ハチ公は、渋谷や秋田だけでなく、山形にもたどり着いた、ということだろうか? 人に歴史あり、というが、ハチ公ほどの犬ならば、まだまだ知られざる物語があるのではないか? 

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2007/06/25

真・ハチ公物語 13

今、世界でもっとも注目を集めている日本犬は秋田犬といわれる。アメリカはもとより、ヨーロッパ全土でも、本家・日本をしのぐ高い人気を持つグレート・ジャパニーズ・ドッグ、秋田犬。その秋田犬が海外で知られるようになったきっかけはなんだろう? それは、見えない、話せない、聞こえないという三重苦を乗り越えたヘレン・ケラーがハチ公に出逢ったことから始まった、ということは、ご存じだろうか?

海外の日本犬第1号は

ヘレン・ケラーの秋田犬「神風」

柴犬「もも」を連れて

「わんわん遊説」も

柴犬がテレビCMに出ていたら……「シーバ」読者なら、とても気になりますよねえ。

そういえば、民主党のCМにも出演していましたね。名前は「もも」、10歳になるメスの柴犬。

なんでも、小沢一郎代表が自宅で飼っておられる愛犬「ちび」も、同じ柴犬のメスで、なんと19歳。人間でいうと 100歳というかなりの高齢。

その「ちび」の代役に、「外見がほんとうに良く似ている」(小沢代表)という「もも」が「共演者」として選ばれた。
 柴犬が大好きというだけあって、撮影中の小沢さんは、「ももちゃん、ももちゃ~ん」「かわいいねえ」「賢い犬だ」と、目尻は下がりっぱなし、リラックスした様子だったとか。

撮影は約4時間にわたったが、「もう少しだよ」などと、「もも」に声をかけ、いたわっていたそうだ。

できあがった民主党のテレビCMは、土手に坐った「もも」と小沢さんが見つめ合う。「もも」の真剣なまなざし。演技とはいえ、さすが。

しかし、相手がねえ。「犬が秋田犬だったら、(小沢さんの)雰囲気にぴったりだったかも」という友人もいたから、微妙な違和感を抱いたのは、私だけではないらしい。

小沢さんが、「もも」のリードを引いて歩くシーンでは、「もも」はちょっと抵抗しているように映った。これは気のせいかしら。
 衆院神奈川16区、大阪9区両補選で、苦戦が伝えられた小沢さんは、「涙ぐましいパフォーマンス」に打って出た。

神奈川県厚木市の街頭演説で、共演した「もも」とふれあい、「もも」を連れて「わんわん遊説」。「ほのぼのイチロー」をアピールした。

「もも」は、小沢さんと街頭を歩いた後、新幹線に乗って大阪府茨木市にも駆けつけた。

しかし、「選挙のプロ・小沢さんでさえも最後は犬頼み」「犬の手も借りたい?」などと自民党議員から揶揄される始末。

さらに噛みついたのが自民党の武部前幹事長。「民主党は街宣車にワンコを使っている。動物虐待じゃないか。選挙運動は人間でも20歳にならない方々は携わってはいけない。許せない」(これも、なんだかなあ、だが)。
 そういえば、ブッシュ米大統領は、愛犬を執務室にまで同伴、専用機に乗せての遊説は有名。けれど、あれは自分の愛犬だから、「犬は家族」をアピールしていたのだろう。

ハチ公銅像と対面した

ヘレンは秋田犬を希望

ところで、そのアメリカで、日本犬が知られるようになったきっかけはなんだろう? それは、見えない、話せない、聞こえないという三重苦を乗り越え、「三重苦の聖女」といわれたヘレン・ケラーだったということは、ご存じだろうか?

ここでちょっと、ヘレン・ケラーの伝記を思い出してみよう。ヘレンは、1880年にアメリカのアラバマ州で生まれた。生後19カ月の時、病気が原因で、目が見えなくなり、耳も聞こえなくなり、話すことも不自由になった。

ヘレンは、よく知られているように、サリバン先生の情熱的な指導で、これらを見事克服。執筆活動や障害者救済活動のために世界各国を歴訪した。

ヘレンは日本を3度訪れ、福祉のために全国を回った。1度目は日中戦争開戦前の1937年、このとき彼女は秋田犬を所望し、実際に仔犬を贈られている。

2度目の来日は、第二次世界大戦後1948年。これを記念して2年後の1950年、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現・社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会)と、財団法人西日本ヘレン・ケラー財団(現・社会福祉法人日本ヘレン・ケラー財団)が設立。

さらに1955年、3度目の来日を果たし、このときも熱烈な歓迎を受けている。

1937(昭和12)年4月、ヘレンは浅間丸で横浜に到着。全国行脚に出発した。5月14日~20日は神戸を訪れ、県立盲学校・聾学校で7千名の聴衆を前に講演。
 
すでにハチ公は、昭和
1038日に亡くなっていたが、渋谷駅前には生前に建てられたハチ公銅像がある。その前で、ハチ公のエピソードを知ったヘレンは、「なんて偉い犬なんでしょう!」と(思ったかどうかはわからないが)深い感銘を受けた。

ヘレンは、訪問先の秋田で、「ぜひ、秋田犬を見たい」と県関係者に要望したという。

8月10日、神戸港から秩父丸に乗船し、横浜を経由してサンフランシスコへの帰途につこうとするヘレンに、秋田犬の仔犬が手渡された。

秋田市の小笠原一郎さんによって、大館市の高橋多吉さんの「神風号」が贈られた。ヘレンは、秋田犬とともにアメリカに旅立った。

当時の世相を反映した

最先端の名前「神風」

この犬が、アメリカで本格的に秋田犬が紹介されるきっかけになった。つまり、アメリカに渡った秋田犬第1号であったという。
 動物好きのヘレンは、神風号をとても可愛がった。神風号のことを「カミ」と呼んでいたとか。

「秋田犬ほど主人の気持ちがわかる犬はいない。生後5ヶ月でこんなにまで献身的な犬は知らない。毛皮を着た天使があるとすれば、それは神風号であるといえましょう」と語っていたという。

ところで、この神風号という名、「カミカゼ」って、すごくないですか? 

神風とはその名のとおり、神が吹かせるなどを意味する。しかし、戦時中は、神風特攻隊といわれるように、身の危険を顧みず、命を惜しまない攻撃の形容としても使われる。

神風号というのは、朝日新聞が陸軍から払い下げされた97式司令部偵察機の試作機と同じ名前だ。
 昭和の始め頃、新聞用写真原稿の輸送のため、各新聞社は競って高速輸送機を導入。朝日新聞は、陸軍の97式司令部偵察機1型を採用した。
 公募によって「神風号」と命名され、ヘレンが来日した昭和12年、東京-ロンドン間を94時間17分56秒で飛行する記録を打ち立てた。

調べてみると、同じ頃の関取に神風という四股名を持つ人もいる。もしかしたら、当時の世相を反映した、ある意味、最先端の名前だったのかもしれない。

しかし、神風号は、ジステンパーのため、生後8カ月余りで亡くなってしまう。ヘレンは、再び秋田犬をリクエスト。1939(昭和14)年7月、小笠原さんは、神風号の兄弟犬「剣山(けんざん)号」を送った。

こうして見ていくと、ヘレンが来日したとき、日本が友好の記念のために秋田犬を特別にプレゼントしたのではなく、ヘレンのたっての願いだったようだ。
 秋田犬の神風号は、前年に最愛の恩師であるサリバン先生を亡くしていたヘレンの心の拠りどころになったことだろう。

グレート・ジャパニーズ・

ドッグとして海外で人気

戦後、再来日した折、ヘレンは、渋谷駅前のハチ公銅像に触れていったとか。よほどハチ公に深い思い入れがあったのだろう。

第二次世界大戦後、アメリカの帰還兵によって多くの秋田犬がアメリカに渡った。

今、世界でもっとも注目を集めている日本犬は秋田犬といわれるほど、アメリカはもとより、ヨーロッパ全土、東南アジア、韓国、台湾、近頃は中国にも進出。本家・日本をしのぐほど高い人気を維持している。
 秋田犬は、海外ではジャパニーズ・アキタ、グレート・ジャパニーズ・ドッグ、アキタなどの名称で呼ばれている。 1972年にはアメリカン・ケネル・クラブ(AKC)に認定された。
 ちょっと古いが、2000年、AKCの人気血統登録では、150種以上の中で秋田犬は38位にランク。柴犬は、1992年に公認され、2000年には55位にランクされている。

秋田犬ハチ公の人気は今も高いようで、ハチ公にちなんで、「Hachi」「Hachi-ko」と名付けられることも多いようだ。

海外のドッグショーで、残念ながら優勝を逃した秋田犬の名前が、なんと「ヤ○ザ」だったという、びっくりするようなお話もある。任侠映画などの日本のイメージから、日本犬にふさわしいと思って名づけたのだろうか? 

犬にどのような名前をつけるかは飼い主の自由だが、日本ではまさか、まず考えられないネーミングではある。とはいっても、「カミカゼ」という名も、かなりのものだが……。

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2007/06/20

真・ハチ公物語 12

人気絶頂で、いくら熱狂的なファンが多かったといっても、イマイチよくわからないことがある。なぜ、1頭の秋田犬の銅像が、渋谷駅前に、しかも、生前に建ってしまったのか? 謎の多い「ハチ公伝説」の中でも、大きな疑問ともいえよう。前代未聞の、生前に銅像が建った内幕には、なんとしてもハチ公が生きているうちに、銅像を建ててしまおうという、ハチ公をめぐる人間たちの思惑が渦巻いている。

「ハチ公伝説」の大きな謎

なぜ、生前に銅像が建ったのか?

犬を抱いたかたちで

埋葬されていた縄文人

以前、青山墓地にあるハチ公の墓について述べた。先ごろ、仏事関連総合サービスの「大野屋」(本社・東京)が、犬あるいは猫を飼う40~60代を対象としたアンケートを実施した。

それによると、6割がペットと一緒に埋葬されることに肯定的だったそうだ。理由のトップは、「家族の一員だから」。
 関東と関西に住む男女それぞれ約300人を対象にしたインターネット調査では、「自分や家族の墓にペットを一緒に埋葬する」について、20・7%が「非常に良い」、39・5%が「良い」と回答した。

反対に「興味がない」が29・4%、「動物と一緒はよくないと聞いている」「一線を引くべき」を含む「その他」は10・4%だった。
 肯定的な理由には、「家族の一員だから」が最も多く、「家族と一緒にいつまでも供養できる」「別だとかわいそう」。男性より女性、年代別では60代より40代のほうが、従来の埋葬形式にとらわれない傾向があったという。

時代はずっとさかのぼり、縄文時代の遺跡からは、現在までに600頭を超える犬の骨が見つかっている。その多くは埋葬され、縄文人にとって犬は、埋葬する対象となるほど親近感が強かった証拠といえよう。犬は、イノシシやシカ狩りなどに欠かせない猟犬として、縄文人の伴侶として、大きな存在だった。

11千年前の、愛媛県・上黒岩陰(かみくろいわかげ)遺跡からも、埋葬された犬の骨が出土している。また、ニホンオオカミ、ニホンヤマネコなど、絶滅種の動物の骨も発見されている。
 なかには、犬を抱いたかたちで埋葬されている人もいる。遺族が、愛犬を一緒に埋葬したと思われる(その愛犬が生きていたとすると、生贄!?みたいな感じか)。

縄文犬は、体高3040センチメートルほど。現在の柴犬とほぼ同じ大きさであったとされている。縄文時代半ば過ぎには、体高50センチメートルほどの紀州犬くらいの中型犬がみられるようになる。

全国紙が一面トップで

伝えたハチ公の死

さて、ハチ公は、ご主人亡きあと、10年間も待ち続けた忠犬の美談として伝えられている。

しかし、である。本来は、愛犬の一生を飼い主が責任を持って見守るべきところをそれができなかった上野博士と、取り残されたハチ公との、実は悲しい物語であって、美談とは一言ではいえないのではないか、と私には思える。

1935(昭和10)3月8日、午前6時過ぎ。ハチ公は、ふだんは行くことのなかった渋谷駅の反対側の、駅から離れた稲荷橋近くにある、滝沢酒店の北側の路地で亡くなっていた。

死因はフィラリア。享年13。もう老衰に近かったというから、自らの死期をさとって、さまよい歩いたのち、路地で力尽きてしまったのだろうか。

ハチ公は、上野博士の墓がある青山霊園を向いて倒れていた、とも伝えられている。

ハチ公のなきがらは、現場に急行した駅員によって駅の小荷物室に運ばれ、安置された。

一般の告別式は、9日午前8時より渋谷駅で行われた。上野博士の八重子夫人はじめ、死を伝え聞いた町内の人々、通学途中の学生、子どもたちが銅像の前に集まり拝んでいった。ハチ公像は、花環と人で埋まった。ハチ公の死を全国紙は一面トップで報道した。

告別式では、渋谷にある妙祐寺(みょうゆうじ)から僧侶が来て読経した。葬儀には、16名もの僧侶が列席したという。

ちなみに、妙祐寺は、渋谷・宮益坂にあった浄土真宗本願寺派の寺。鎌倉後期の創立といわれ、江戸初期に中興されたが、昭和27年、世田谷区烏山に移転。本堂は、インド様式の独特の建物で、近隣の寺のなかでも異彩を放っている。

 その後、前にも述べたように、ハチ公のなきがらは、剥製にされた。

死の前年に銅像が完成

除幕式にはハチ公も出席

昭和7年10月4日付の朝日新聞の記事によって、ハチ公は一躍全国的に知られることになった。ひと目、秋田犬を見ようと、全国から渋谷駅へ人が押しよせてきた。

人が集まれば、そこに便乗商法が生まれるのが世の常。渋谷駅周辺では、さまざまなハチ公グッズがあふれた。

それだけではなく、ハチ公自身が欲得の対象となってしまった。ハチ公の木像をつくって渋谷駅に飾るためだと称し、木版画の絵葉書を作って寄付を集める男も現れたのだ。

ハチ公を有名にした、生みの親ともいえる斎藤弘吉は、そのことを知ると、木像騒ぎが収拾つかなくなる前にと考えたのだろう。自ら発起人となって「忠犬ハチ公銅像建設趣意書」を提出、ブロンズ像をつくるための寄付を募った。

このことを『日本犬保存会創立五十周年史』(上巻・日本犬保存会)の「ハチ公銅像竣功報告」は、「昭和八年秋、保存会理事・安藤照氏(彫刻家)によって彫刻されて帝展に出陳され、有志の間で(ハチ公の)銅像を建設しようということが話題になると、これを利用して利を獲ろうとする者が現れた。そのため、ハチ公の死後に建立する予定を早めて、戌年初頭にこの計画を発表し、四月の桜の頃に除幕をしようと建設計画を発表し、募金に着手した」と述べている。

これによって、全国の子どもたちからも多くの寄付が寄せられ、ついに、渋谷駅改札口前に、忠犬ハチ公像(台座の高さ180㎝、像の高さ162㎝)が完成。その除幕式は、昭和9年4月21日に行われ、ハチも出席した。

生前にハチ公の銅像が建ってしまった内幕には、木像より早く、なんとか銅像を建ててしまおうという、ハチ公をめぐるさまざまな人物の思惑が渦巻いていた。
 渋谷駅構内で行われた除幕式には、博士の未亡人、各界の名士など、約100人が参加。

5月10日には、銅像の製作者である安藤照による鋳造「忠犬ハチ公臥像」が天皇皇后両陛下に献上された。

生前に銅像が造られたうえ、塑像が宮中に供されるというのは、まさに前代未聞のこと。

現在、ハチ公像のある渋谷駅の改札口の一つはハチ公口と呼ばれている。

ハチの銅像は第二次世界大戦中に供出され、現在のものは昭和22年8月に再建されたもの。

ハチ公のふるさとに建つ

銅像は耳が立っている

ハチ公のふるさと、秋田県大館市のJR大館駅前にもハチ公の銅像が建っている。同駅のホームには、ハチ公神社もある。

東京・渋谷に忠犬ハチ公の銅像が建設されることを知った大館では、木村泰治氏が発起人となり、有志が忠犬ハチ公銅像と同一原型のものを大館駅前に建て、ハチ公が亡くなった昭和10年の7月8日に除幕式が行われた。
 秋田犬の町のシンボルだったが、昭和20年、渋谷の銅像と同じように撤収されてしまった。

戦後、昭和22年8月、渋谷駅前には銅像が再建されたが、大館駅前の再建は実現しないままだった。
 昭和39年5月、忠犬ハチ公の若い頃の姿を中心にした「秋田犬群像」が大館駅前に建てられた。

さらに時が流れ、ハチ公没後50年に当たる昭和59年、大館市観光協会の提唱により「忠犬ハチ公銅像再建の会」が結成され、忠犬ハチ公銅像の再建に向けて募金活動が始まった。
 そして、昭和62年11月14日、大館駅前のハチ公銅像の除幕式が行われた。渋谷のハチ公銅像は、晩年のハチ公をモデルにしているため、左耳が垂れている。

一方、大館の銅像は、渋谷とはイメージを変え、若い頃のハチ公をモデルにしているため、両耳が立っている。

銅像のお披露目された時、ハチ公は剥製となって、63年ぶりに生まれ故郷に帰ってきた。
 大館市大子内(おうしない)の斎藤七郎右衛門さんの自宅の前には、「忠犬ハチ公の生誕地」という碑がある。

私は、日本犬の取材を始めた当初、斎藤さんにお会いしてお話をうかがったことがある。

ハチ公の生家は、JR大館駅から、タクシーで長木川と米代川を越え、田んぼに囲まれた静かなところにあった。

交通の不便なところだったが、その後、観光客が増えたためか、大館市は、生家の前に、ハチ公をイメージした公衆トイレを設置したそうだ。

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2007/06/15

真・ハチ公物語 11

韓国の珍島という島が原産の珍島犬は、韓国の天然記念物に指定されている大型犬。日本の秋田犬によく似た、賢く美しい犬といわれている。その歴史には、韓国と日本の関係を示唆するような、さまざまな話が伝えられている。また、ハチ公のふるさと・大館では、珍島を訪ねて、珍島犬についての理解を深めるとともに、秋田犬と珍島犬の情報交換をして、民間交流を図っているそうだ。

遅れて犬にも韓流が到来?

韓国版忠犬ハチ公・珍島犬とは

秋田犬に匹敵する忠誠心

韓国版ハチ公珍島犬

韓国を訪ねた。実に10年ぶり。今回は、韓国出身の友人の案内で、世界遺産などの史跡訪問はもちろん、人気テレビドラマ「宮廷女官 チャングムの誓い」でも注目されている宮廷料理も楽しむグルメ旅でもある。

というと、あまり犬とは関係ないではないかと思われるかもしれない。しかし、韓国の犬事情も、それなりに見聞してまいりました。
 近くて遠い国というイメージがまだ根強い韓国の犬事情といってもまだよく知られてはいないようだ。

だが、韓国の大通りでは、ここ数年、ペットショップが立ち並ぶようになり、街中でミニチュア・プードルなどの小型犬を散歩させる姿も見かけるようになった。
 犬の頭数が増えてくるにつれ、捨て犬の増加など、日本と同じようなさまざまな問題を抱えているようだ。

ところで、みなさんは、韓国の天然記念物「珍島(チンド)犬」をご存知だろうか? 忠誠心の高い珍島犬は、韓国版ハチ公(!)と呼ばれているのだとか。

そこで今回は、「真・ハチ公物語」番外編として、犬の韓流・珍島犬をとりあげたい。

珍島犬は、韓国の全羅南道(チョンラナムド)にある珍島という島が原産。韓国の天然記念物第53号に指定されている大型犬だ。

珍島は、天童よしみの「珍島物語」の歌詞にも出てくる。珍島の海割れは、潮がひいて海の道を歩くことができるというもの。観光名所となっている。

戦争のため毛皮にされた

韓国の犬たちの受難の歴史

日本の秋田犬に匹敵する、賢く美しい犬といわれている珍島犬にまつわるさまざまな話がある。

壬辰倭乱(文禄・慶長の役/豊臣秀吉による朝鮮侵略)の頃、珍島のすべての犬たちがいっせいに海に向かって騒がしく吠えたことがあった。すると翌日、沖から倭冠(日本の海賊)の船が押し寄せてきた、という。
  また、大田(テジョン)に売られた珍島犬のベクグが、7カ月後、300キロ以上も離れた珍島へ自力で戻ってきた。痩せこけた姿で、飼い主の女性に抱かれたベクグの忠義を讃えて、珍島郡ドンジ村には、ベクグの銅像も建っているそうだ。

ここで、韓国の犬たちの受難の歴史にもふれておかなければならないだろう。日本でも、太平洋戦争末期に、「犬もお国の役にたちます。すすんで国に納めましょう」という呼びかけが盛んに行われた。

家庭で飼われていた犬は、供出という名目で警察署に集められた。その犬の中には、軍事用に訓練されて戦地に送られたものもいた。

しかし、その多くはすぐに殺され、毛皮は軍服に、肉は缶詰となって戦地の兵隊のもとに送られた。

日本の植民地だったこの国の犬たちの受難も想像に難くない。朝鮮総督府は、1938~45年の間に、在来犬を毎年10~50万頭も供出させ、150~200万頭を殺して防寒用の毛皮や食用に用いた、という報告もある。

しかし、珍島犬は、秋田犬などの日本犬によく似ていることから、38年に天然記念物に指定された。43年には、「虎追い犬」といわれていた豊山犬も保護の対象となった。

 戦後、日本プロレス所属のプロレスラーとして活躍、NWAインターナショナル・ヘビー級世界チャンピオンとなった大木金太郎は、韓国出身。幼い頃、珍島犬を最愛の友としてかわいがっていたという。

ところが、日本軍の防寒服を作るということで日本の巡査に渡さなければならなくなった。何度も金太郎のことを振り返りながら、巡査に引かれていく愛犬。そのことを思い出すたび、金太郎は、最後まで世話をしてやれなかったことに、とめどなく涙した。

このように、数々の逸話を持つ珍島犬を通して、日韓の友好親善を行なおうとしているのが、秋田犬つまりハチ公のふるさと・大館である。

2004年5月、珍島にある珍島犬試験研究所を訪問して、珍島犬の飼育、保存、普及について理解を深めるとともに、秋田犬と珍島犬についての情報交換をして、関係者の交流を図った。
 こうした民間交流を促進し、将来的に大館市と珍島の姉妹都市提携をすすめるよう働きかける目的もあるようだ。


韓国の天然記念物

珍島犬がケンネルクラブに登録

国の犬として長く愛されてきた珍島犬。このほど、世界的な犬の登録機関である英国ケンネルクラブ(KC)に公式登録された。

英国ケンネルクラブは、米国ケンネルクラブ(AKC)、世界ペット連盟(FCI)とともに世界3大登録機関の1つ。1873年創立と、最も歴史が古い。

珍島犬も、英国のコリー、ドイツのシェパード、フランスのプードル、そして日本の柴犬や秋田犬のように、固有の名称で、その国の犬として認められるようになったのだ。
 
珍島犬の故郷である珍島では、これで世界の名犬の仲間入りができたと喜んでいるそうだ。

珍島犬試験研究所は、保護育成と研究という、大きく2つの役割を持っている。広報はじめ、体形や疾病や人工受精の研究、母犬の管理、防疫、搬出入の許可、品評会など、さまざまな業務を推進。

ユン・チャンホ珍島犬試験研究所長は、マスコミのインタヴューに対して、「全世界の174種が登録されていて、登録が難しいAKCに2008年に加入することを目標にしている」と話している。これから、珍島犬の血統を体系的に管理する作業にも拍車がかかりそうだ。

生後6ヵ月で公認審査員が

天然記念物の審査

珍島郡の約1万5800世帯では、5世帯に1世帯の割合で珍島犬を飼っているそうだ。ここで飼育されている珍島犬は、約1万3000頭。うち6000頭が天然記念物に登録管理されている。

残りは、生後6ヵ月未満で、まだ天然記念物の審査を受けていないなどの犬。珍島で生まれた犬は、生後6ヵ月になると、珍島犬公認審査員から体形、尾、歯など、24項目にわたって審査を受けるのである。

珍島犬は、生年月日、顔つき、住所、合格点数などの情報が盛り込まれた固有番号による電子チップが、首筋の皮下組職に移植され、管理されている。

研究所のイ・ゲウン獣医師によると、「今までは、犬籍証明書を発給したが、2008年からは、純血種であることを確認できる3代以上の家系図などを含む血統証明書を発給する計画がある」という。

さらに、珍島犬について調べていたところ、「飼い主に黙って数千万ウォンの珍島犬を食べ御用」というニュースを見つけた。

 これは、他人の血統書付きの珍島犬を飼い主に黙って食べた50代の男ら3人が、警察に特殊窃盗の容疑で書類送検された、というもの。

韓国には、補身湯(犬鍋)という伝統的な料理を出す専門店もあるが、さすがに最近は表立って看板を見ることはほとんどない。

2歳のメスだったこの珍島犬について、韓国珍島犬協会のイ・チョルヨン会長は、「5代にわたる純血種で、まだたくさんの子どもを産めた。純血種の珍島犬の価値を軽視する風潮に警鐘を鳴らすためにも、犬の賠償金を支払ってもらいたい」と語ったそうだ。

柴犬の祖先は

朝鮮半島の珍島犬

ここで、麻布大学の田辺雄一教授の学説も紹介してこう。田辺教授は、犬の血液中のたんぱく質の遺伝子構造を研究し、犬種ごとの違いを割り出している。

この調査により、東南アジア系の犬と韓国系の犬とではタイプが異なることが判明している。

つまり、柴犬のような本州原産の犬は、韓国の珍島犬とよく似ており、北海道犬や琉球犬は、東南アジア系の犬と遺伝子構造が似ていることがわかったのである。

田辺教授は、「 東南アジアからやってきた人々が、北海道から沖縄まで住みつくと同時に、日本各地に縄文タイプの犬も住みついた。その後、朝鮮半島の人々が九州などから入ってきた。このとき連れてきた弥生タイプの犬によって、縄文犬と弥生犬の交配が進んだのではないか」と推測する。

つまり、柴犬の祖先は、朝鮮半島の西南端の珍島犬につながっている、というのである。

山陰柴犬には、今もネズミを捕る習性があるが、珍島犬も、韓国ではネズミ捕りの名手として知られている。

 日本では、犬を展示している動物園は少ないが、韓国の動物園には、豊山犬、サプサル犬(狛犬のモデルといわれている)、珍島犬という3種類の韓国の在来犬が飼育されている。

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2007/05/25

真・ハチ公物語 9

ディズニー映画「南極物語」がロードショー公開された。これは、「タロ・ジロ」で知られる「南極物語」リメイク版。東京タワーの真下には、南極越冬隊カラフト犬像が建っている。この像をつくったのは、ハチ公銅像をつくった安藤士。その父・安藤照は、初代・ハチ公銅像の製作者。ハチ公という1頭の犬から、斎藤弘吉、安藤親子、そしてタロ・ジロへとつながる不思議な縁を追った。

ハチ公像(初代・2代目)とタロ・ジロ

記念像をつくった安藤親子とは?

毎年4月8日、渋谷と

大館でハチ公慰霊祭

3月8日は、ハチ公の命日。1ヶ月後の4月8日(釈迦の降誕を祝す花まつり)に、毎年、ハチ公慰霊祭が行われる。

これは、地元の商店街やデパート、鉄道会社などでつくる「忠犬ハチ公銅像維持会」が主催。維持会は、忠犬ハチ公の銅像を区の文化財として維持するため管理をしてきた。

飼い主だった上野英三郎博士の死後も、渋谷駅前で帰りを待ち続けたハチ公のことを後世に伝えようと、ハチが死んだ翌年の昭和11(1936)年から毎年開いてきた。
 私も以前、1度出席したことがある。渋谷駅前のハチ公銅像のうしろに紅白の幕が張られ、看板には「忠犬ハチ公まつり」、銅像の両側は花で覆われている。

銅像の前にイスが並べられ、渋谷区長、ハチ公の故郷である秋田県大館市の助役、上野博士のお孫さん、維持会の会員など約50人が参列するなど、にぎにぎしい雰囲気。

銅像前にお神酒や榊が供えられ、お祓いがされたあと、ハチ公像の首に次々と花輪をかけて、めい福を祈った。通りがかりの人々は、「ハチ公の慰霊祭だって」と驚きの声を上げ、カメラ付き携帯で写真を撮るなどしていた。

あとで知ったのだが、4月8日は、もうひとつのハチ公銅像があるJR大館駅前の忠犬ハチ公広場でも、ハチ公慰霊祭が行われている。こちらでは、平成3年から、忠犬ハチ公銅像及び秋田犬群像維持会によって行われているそうだ。

これと前後して、渋谷区と大館市の交流が盛んになり、小学生による相互訪問やさまざまな行事が毎年のように開催され、JR渋谷駅と大館駅の姉妹締結も行われた。ハチ公という1頭の犬の縁で、人の輪が大きく広がったのである。

ハチ公像(初代)は

西郷像も製作した安藤照

 さて、ここで、注目しておきたいのは、「渋谷のハチ公銅像は2代目である」ということ。実は、以前、トリビアの泉」というテレビ番組でも、ハチ公のトリビアとして放送されたこともある。
 そのとき、現在のハチ公銅像をつくった安藤士(たくし)さんが登場されて、「そうです、今のは2代目です。1代目は戦争中金属が必要になって回収になり壊されてしまいました。初代のハチ公は、私の父が作ったものです」と語った。

つまり、戦時中、ハチ公銅像は、供出(国の要請に応じて提供すること)されてしまったが、戦後つくり直された現在の2代目は安藤士さん制作で、初代の制作者は彼の父、安藤照(てる)さん制作。1代目(昭和9年)と2代目(昭和22年)の作者は、親子なのである。このことも不思議な縁を感じるのは私だけであろうか?

さらに、である。大館駅前にあるハチ公銅像も、現在のものは2代目なのだが、初代の銅像は、安藤・父が、渋谷のハチ公銅像をつくった翌年に制作している。

そもそも、ハチ公銅像を2代にわたって制作した安藤親子って、どういう人物なのか?

父・安藤照は、鹿児島出身の彫刻家。帝展(帝国美術院美術展覧会、1919年~34年)の彫刻審査員で、昭和9年に忠犬ハチ公像をつくっている。

安藤照は、1892年、鹿児島市生まれ。1915年、二中卒業後上京し、藤島武二の紹介で武石弘三郎に塑像(粘土細工の像)を学ぶ。17年、東京美術学校入学。21年、第2回帝展に入選。翌年、東京美術学校卒業。同年、第3回帝展特選。以後、5、6、7回帝展でも特選となり、7回帝展では帝国美術院賞を受賞。

28年、西郷隆盛没後50年祭記念事業として、西郷隆盛銅像の建立を委嘱され、37年に完成。これは現在、鹿児島県鹿児島市にある「西郷隆盛銅像」。城山の麓に立てられ、台座からの高さ8mの銅像。

ちなみに、明治31(1898)年に建てられた東京・上野公園の西郷さんの銅像に遅れること、実に39年後のことであった。上野にある西郷像(明治30年・高村光雲作)は、ラフな着物姿であるのに対し、地元・鹿児島の像は、陸軍大将の制服を身につけた堂々たる姿となっている。

安藤照の没年は昭和20(45)年。子息でやはり彫刻家の安藤士は、都内にご健在である。

次に、なぜ、安藤照は、ハチ公銅像を制作することになったのだろうか?

前回ご紹介した斎藤弘吉を覚えておられるだろうか? 新聞の投稿によってハチ公を一躍有名にした斎藤は、同じ東京美術学校出身の安藤照と友人関係にあった。斎藤と親しかった安藤照は、有名になる前からハチ公のことをよく知っており、ハチの話に感動していた。

渋谷区初台に住んでいた安藤照は、昭和8年のある日、実際に街頭でハチ公の姿を目にする。そして、「ぜひハチ公をモデルにして彫刻をつくり、秋の帝展に出したい」と斎藤に話した。それがきっかけで、6月からハチ公は、安藤のアトリエに毎日連れてこられた。

「ブロンズ像にとどめる/名犬「ハチ公」の像/帝展の安藤氏が苦心の制作」 

昭和8年8月23日の朝日新聞は、写真入りで大きく、安藤照によってブロンズ像となって帝展に出品されたハチ公のニュースを伝えている。

タロ・ジロの南極越冬隊

カラフト犬像は安藤士

話は変わって。今春、ディズニー映画「南極物語」がロードショー公開された。「南極物語」といえば、「タロ・ジロ」である。このタロ・ジロで知られる南極越冬隊カラフト犬像が、東京都港区の東京タワーの真下に建てられているのはご存知だろうか?

さらに、この像は、渋谷のハチ公銅像の2代目彫刻家、安藤士によるもの、ということは意外と知られていないかもしれない。

昭和33(58)年2月、前年に引き続いて2度目の越冬を試みた南極越冬隊は、悪天候のため観測船「宗谷」が接岸できず、越冬を中止した。

ソリ犬として活躍するカラフト犬15頭を繋いだまま現地に置き去りにして撤収。天候が回復したら犬を迎えに行くつもりだった。しかし、結局、隊員を収容した「宗谷」はそのまま引き上げ、基地は1年間無人になった。
 翌34年1月14日、第3次越冬隊が上陸。15頭のうちの2頭、タロとジロの元気な姿を発見。奇跡的かつ劇的な対面を果たした。

しかし、7頭(ゴロ・ベス・紋別のクマ・クロ・ポチ・モク・アク)は、首輪に繋がったまま餓死。6頭(風連のクマ・シロ・リキ・アンコ・デリー・ジャック)は、行方不明のままだった。

タロ・ジロ生存のニュースは日本中を感動させた。この実話をもとに約20年前に制作された邦画「南極物語」は空前の大ヒットとなった。

現在、タロは、札幌市の北海道大学付属博物館に、ジロは、東京・上野の国立科学博物館に、それぞれ剥製となってその姿を伝えている。

科学博物館の動物分類展示フロアには、ジロの隣にハチ公の剥製が並んでいる。それぞれ「カラフト犬ジロ」「秋田犬 ハチ公」というプレートを付けて展示されている。

ハチ公の剥製は、当時、日本一の技術を持っていると言われた坂本喜一さんの指導によって制作されたそうだ。

また、北海道稚内市の稚内市青少年科学館には、タロ・ジロの幼年時代の写真や南極観測隊に関する展示がされている。

しかしながら、タロ・ジロ以外の、「殉職」した13頭の存在も忘れるわけにいかないであろう。前に述べたように、東京タワーには「南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像」という、15頭の犬像が建っている。

記念像のタワー側の側面には、「一九五九年九月二十日竣工  彫像 安藤士/構成 斎藤弘山」、表面には「南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像 1959年 財団法人 日本動物愛護協会」とある。

銘板は、昭和34(59)年だが、おそらく生還が判明する以前に建立計画はあったのだろう。

東京タワーの開業は、昭和3312月。日本動物愛護協会は「二度とこのような事件が起きてほしくない」という思いから、動物愛護のシンボルとして、当時開業したばかりで、話題の地であった東京タワーに記念像をつくったのである。

 驚くことに、ここにも、安藤照の子息・安藤士の名が見える。気になるのは、斎藤弘山という名。これって斎藤弘吉と関わりがあるのではないか?

斎藤の経歴を見ると、昭和23年、日本動物愛護協会専務理事を経て理事長に就任している。ハチ公、渋谷、大館、斎藤弘吉、安藤親子、そしてタロ・ジロと、不思議なつながりを感じるのは私だけであろうか?

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2007/01/16

真・ハチ公物語1

仕事も食事もショッピングも

なんでもハチ公の渋谷で

ハチ公といえば、渋谷。これから「真・ハチ公物語」を始めようという私ですが、実はここ何年も、まともに渋谷に出向いたことがない。もちろん、取材などで渋谷を訪ねることはあるが、自分から進んで渋谷で遊ぼうという気にはならない。

理由は、あの人ごみである。あまりに猥雑過ぎて、近づきたくない雰囲気。猥雑さでは新宿のほうが負けていないかもしれないが、私にとっては、まだ新宿のほうが親しみやすい。

もともと私は、渋谷にまったく縁がないかというとそうでもない。初めての勤務地が渋谷であったこともあり、20代の多感な時期を毎日、朝から晩まで渋谷で過ごした。お仕事はもちろん、食事もショッピングも映画も芝居もライブもコンサートも、なんでも渋谷で、という時代が長く続いたのである。

ニッポンの犬を求める

私の原点・ハチ公

もちろんハチ公銅像にも待ち合わせでお世話になった。お酒を飲み過ぎて気持ち悪くなり、銅像前に座り込んだことも。渋谷が私の青春でした、という感じだ(恥)。ところが、年齢的にだんだん馴染めなくなったのか、ある頃から渋谷から遠ざかってしまった。

しかし、物書きとして独立した私が、最初のテーマに選んだのはハチ公だった。ハチ公つまり秋田犬のルーツを訪ねた。それが私のニッポンの犬を求める旅の原点といえるかもしれない。

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