吉田悦子のニッポンの犬探訪記23 北海道犬
人と動物の共存が ニッポンを救う!
クマ対策犬訓練中
北海道犬による野生動物の追い払いの訓練に孤軍奮闘する鈴木延夫さん。そこには、「人間とは何か」という気持ちから動物行動学を志し、アラスカオオカミに対する畏敬の念がある。強靭な北海道犬とともに自然と向き合う日々を追った。
野生動物の駆除ではなく 共存するための追い払い
長野県伊那市。南・中央アルプスに挟まれたこの地域は、ツキノワグマやニホンザルやイノシシなどによる農作物の被害が深刻化している。
「人間の栽培する農産物は、野生動物にとって麻薬みたいなもの。その味を1度覚えてしまった動物は、一種の麻薬中毒に陥ります」。そう語るのは、動物行動学の専門家、鈴木延夫さん。
北海道大先端科学技術共同研究センター助教授を退いた鈴木さんは、伊那市に招かれ、北海道からゆきえ夫人といのりちゃんと移り住んだ。
野生動物による農作物への被害を防ぐため、クマやサルが人里に現れたら、訓練した北海道犬に追い立てさせる。そうすれば、野生動物たちも学習して人里に出てこられなくはず。鈴木さんは、北海道犬を活用した野生動物の追い払い、「人間と野生動物の共生プロジェクト」に取り組んでいる。
鈴木さんによると、人間と野生動物の共存を制御するには、①人間と野生動物の生活圏を完全に分離する、②人間と野生動物が混住したまま双方を制御する、という2つの方法がある。
「農家によって、さまざまな作物が耕作されている日本では、完全無欠な有害鳥獣対策はありえません。ただ、野生動物を害獣として駆除するのではなく、人と生きものが共存するための試みとして、ぜひとも、北海道犬を用いた追い払いプロジェクトを成功させたい。そして、ほかの地域でも生かしてもらえたら」と抱負を語る。
生命力、認識力、闘争力、総合的能力は随一
北海道犬は、北海道の原住民・アイヌ民族がヒグマ猟に用いた中型の日本犬。寒冷な自然環境を生き抜く強靭な生命力。氷点下の冷水や流れに飛び込んでも健康に問題はない。伝染病に対する抵抗力も強い。
崖や壁をたくみに爪を駆使して上がり降りする。粗食に耐え、飢餓に対する驚異的な耐性力は注目に値する。
狩猟性に富み、高い運動能力を持つ。飼主に従順。ムダ吠えをしない。勇猛果敢。野生動物に恐怖感を持たない。視覚、聴覚、嗅覚が敏感。野生動物の発見能力に秀でている。
生涯にひとりの主人にしか仕えない。いったん身につけた能力は、一生忘れない。訓練者に対する主従関係を厳格に保つ。人間と一体になった追跡能力に優れている。
「アイヌの人たちが、ヒグマ猟のために活用してきたアイヌ犬は、長年にわたる人為淘汰の結果、嗅覚・聴覚・視覚、闘争力、持久力、主の意図を認識する能力などに優れている。総合的能力は、他の犬種の追従を許しません。有害鳥獣対策の利用価値はきわめて高い」と鈴木さんは指摘する。
人間大好き、明るく元気に疾走する犬たち
昨年10月、北海道に住む北海道犬のブリーダーから子犬10頭が伊那に届いた。最適な入手時期は、生後45~60日。世話をする訓練者に対する絶対的信頼や服従性を刷り込むためだ。
生後120~180日は、標高差の大きい伊那の地形へ順応する訓練を行う。生後180日から、野生動物の発見および撃退訓練。それ以降は、リ-ダ犬および追従犬の選別訓練をする。
ところが、当初から波乱にみまわれた。最初に入手した子犬のうち5頭が、激しい下痢と吐き気を繰り返し、生後90日齢前後で死亡。パルボウイルスに感染していたのだ。
深刻な伝染病は、ほかの子犬にも蔓延。そうした事態が、昨年から今年2月まで続いた。さらに訓練中、イノシシとの闘いで、リーダー犬をはじめとする数頭が重傷を負った。
鈴木さんは、現在、自家繁殖にも取り組んでいる。生後90日までは、自宅の庭に設けた犬舎で育てる。その後、近くの訓練場所で、初期訓練と本訓練を行う。訓練法は、動物学習心理学や動物行動学をもとにしている。
半年間は、主に追い払い犬として必要な感覚を磨く訓練。生後1年の2頭をリーダー犬に、前に述べたように、生後4カ月の4頭は里山での順応訓練、生後8カ月の2頭は、野生動物の発見・追跡訓練を行う。
本来、北海道犬は「一生一主」だ。しかし、こうした訓練後は「一生多主」となる。つまり飼い主の変更が容易になる。また、単独生活から集団生活へ、排他性から共存性へと習性が変化する。歩き方は、ベタ足からつま先へ(犬族からネコ族へ)。過度の攻撃性から温和な性格へ。山を歩くとき、人の前を行く先行型から人に付き添う追従型へ、というように大きく変わる。
実際に、私も北海道犬たちと山に入った。リーダー犬のリョウは、イノシシにやられて後ろ足にケガを負った。しばらく安静にしていた。山に入るのは久しぶりだ。リョウはじめ、喜びにあふれる犬たちは、全身で私に突進してくる。人間大好き。とにかく明るい。元気に疾走するリョウ。ほかの犬もそれに続く。山中では、互いに50メートルほど離れて行動する。
訓練では、クマやサルやイノシシ、シカなどの野生動物を見つけたら、300~400メートル、30分ほど追い掛けて山奥へ追い払う。
「人里に下りてきた野生動物を頂上近くまで追い返す。これを何度か繰り返すことで、野生動物が『ここを荒らすのはやめよう』と学習する。猟犬のように野生動物を仕留めるのではない。むしろ、こらしめに近い。野生動物との共存のための助っ人として北海道犬を育てたい」と鈴木さんは強調する。
地形が複雑なため、通報を受けてから、鈴木さんが犬とともに現場へ向かうまでに30分くらいかかる。そのため、各集落に北海道犬のチームを置いて活動できれば、と期待している。
今後は、北海道犬の繁殖にも力を入れ、3年をめどに、訓練を受けた犬を地域に払い下げ、農作物被害を受けている農家に北海道犬を飼ってもらいたい。鈴木さんは、調教した犬とともにその家に出向き、継続的に犬の訓練をできたら、と考えている。
「犬の飼育や訓練と並行して、市民から公募して専門の訓練者、つまり後継者も養成していきたい」
人知を超えた能力を持つオオカミに畏敬の念
鈴木さんが、人間と動物との共存を考えるようになった原点は、少年時代にさかのぼる。日本、ロシア、フランスなど文学に熱中し、難解な哲学書を読みふけっていた。鈴木さんの頭を占めていたのは、「人間とは何か」という大命題であった。
北大に進むと、実験心理学を専攻した。その専門分野のひとつに、動物心理学があった。人間の心理を知る前に動物について知ろう。鈴木さんは、身近な野良犬の習性や生活を調べた。そして、犬の放尿がテリトリーを主張するという、それまでの常識を覆す説を発表した。
3頭の野良犬が、同じ場所に放尿してもケンカにならない。しかも、放尿には規則性はなかった。研究の結果、犬は、他の犬の尿や何かのにおいに緊張し、不安を感じて放尿することを実証した。放尿は、なわばりを示すのではなく、興奮のサインだった。
さらに自宅で、犬をはじめ、ネズミ、ニホンザル、オオカミ、キタキツネなど、あらゆる動物を飼育し、社会行動学や習性を研究するようになった
サル学にも注目した。愛知県犬山市の京都大学霊長類研究所で、ニホンザルの集団を使って実験した。異なる場所で飼われていた5頭のニホンザルを一緒の部屋に入れて餌を与え、どのようにして社会的順位が生まれるのか観察した。社会的順位は、一度出来ると簡単に崩れない。長期にわたって安定することがわかった。
昭和54年、北大文学部に行動科学科が設立された。大学院生時代から、鈴木さんは、蝦夷オオカミの絶滅の原因について考えていた。犬・人間・オオカミという三者の奇妙な歴史的関係の答えを探すため、84年から90年にかけて、アラスカに通った。
注目したのはハイイロオオカミ(蝦夷オオカミの仲間)。ハイイロオオカミの繁殖期における社会生活の実態について研究した。
滅びゆく運命にあるオオカミの姿を求め、アラスカの過酷な大自然に分け入り、長期にわたって探索した。『アラスカの雪原にて』という著書もある。オオカミと人間社会の関わり合いを深く問い直すうち、鈴木さんは、オオカミに魅入られた。
しかし、過去の歴史では、オオカミは評判が悪い。「赤ずきん」や「三匹の子ブタ」の物語に見られるように、オオカミは、貪欲で愚鈍な動物として描かれている。
どうして、このようなオオカミ像が生まれたのだろう?
人が山野を切り開いた牧場で飼っているヒツジをオオカミが襲う。家畜を強奪するオオカミは憎まれ、悪のイメージが定着した。人口の増加と自然破壊で、オオカミの生息域は減少しつづけた。獲物を奪われ、囲い込まれたオオカミは、家畜を襲った。
群れで狩りを行うオオカミにとって、社会的順位は重要だ。順位は生存のための基本条件。それを維持するための努力が払われる。
「オオカミは、野生動物の中でも、人知を超えたすぐれた能力を持つ、尊敬に値する生きもの。オオカミに畏敬の念を抱いています」と鈴木さん。
野生の意味、本来の野生とはどういうものか。その対極にある犬や猫などのペットはいかなる存在なのか。北海道犬のような強靭な犬を日本人の多くは飼いならすことができなくなっている。無害で超小型のペットに夢中になっている現代人。いったいどこに行くのか?
10代から、「人間とは何か」を考えてきた鈴木さんは、自問自答する。
「日本は、少子高齢化、子供を虐待したり、子供が親を殺したりする事件が噴出しています。それは、日本人が家畜化の一途をたどっていることに原因があるのではないか。老いも若きも脆弱になり、自立心を失った典型的な家畜のように見えます。日本人は、自己管理能力を失っている」
イノシシとの対決訓練で傷を負い死に至るケ-スも
鈴木さん宅では、この夏、3頭の子犬に続いて、6頭の子犬が誕生した。素晴らしい犬同士の交配で、性質のすこぶる良性な健康な子犬たち。「北海道犬に関心のある人は、ぜひお問い合わせください」と鈴木さん。
某日朝5時半、クマ出没情報により、鈴木さんは、中央アルプスのふもとへオス犬3頭と急行した。そこで、1頭が原因不明の裂傷を負う。翌日、犬たちと山歩き中にイノシシの親子と激突。このときは、みんな無事帰還した。
これまで少数精鋭で、北海道犬の訓練に没頭してきた。当初の予想に反し、イノシシとの対決訓練では、傷を負い、死亡に至るケ-スもあった。野生動物から直接伝染する犬の病気も無視できないことが判明した。
これからは、リ-ダ犬や追従犬だけでなく、予備の犬も準備しておくことが課題だという。
「追い払い犬は、対処療法に過ぎません。人間と野生動物が暮らせる山づくりが大切です」と鈴木さんは語る。
取材後、メールが届いた。「こちらはすっかり秋の気配ですが、私は1日としてのんびりできる日がありません」。想像を絶する緊張感が漂う。
蝦夷地より伊那の谷間に移り来し我が目の前を子ザル通りぬ
鈴木さんの短歌である。北海道犬とともに奔走する毎日。ゆったり歌を詠むのは、しばらく先のようだ。
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コメント
はじめまして。
少ない文献で苦戦しながら北海道犬の勉強をしています。
共生プロジェクトの近況を教えていただければ幸いです。
投稿: 三上東洋 | 2009/09/09 10:45